(特別寄稿)温故知新に學ぶ幼兒教育 村上みゆき

復刊六号(平成二十六年十月一日)より

文科省

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昨今、教育基本法改正に伴ひ、幼兒教育が重要だと位置附けもなされたが、其の具體的な反映は一體どのやうな事なのだらう。行政が示す紙面だけの御尤もなマニユアルを羅列したところで實踐での成果に辿り着くはずもなく、モンスターペアレントとパワーハラスメントのダブル攻撃に神經を使はざるを得ない現状であるならば、其のしわ寄せを被るのは一體、誰であるか容易に想定が出來るのではないでせうか。
子ども達には生まれてきた使命があります。至極當たり前のことではありますが、生まれがひのある教育を受ける權利があるのです。同時に大人である私たちは責任ある義務者と成らなくてはいけないと云ふことに成ります。
扨て、教育基本法によれば、教師には、「崇高な使命」があると書かれてあります。即ち、其れは單なる勞働者ではないと法は指してゐるのです。また「研究と修養に勵み」とも記してあります。修養とは自己改善な筈であり、其の場しのぎの技術であつてはならないのですが、子供中心主義とマルクス主義の教育現場では、人格と見識共に優れたる真の聖職者を歡迎しないものとしてをります。 私のやうな素人が教育現場を語るのも烏滸がましい事ではありますが、情緒の歪みは親のしつけの至らなさや、地域環境や教育現場の力不足などが擧げられます。ことに管理下された教育現場では、さまざまな問題が絡み合つた出口のないスパイラルに入つてしまひ、状況、拔け出す手立てを講じてはないやうに見受けられます。
學級崩潰の低年齢化を例にとれば、義務教育開始早々の兒童から始まる事も多く、經驗を積んだベテランの教員ですら、今まで扱つた事のない、豫想も出來ない行動をとる子供と接して手を燒いてゐるのも屡々。決して、幼兒教育のすべてを否定してゐるのではないけれども、此れには就學前の幼兒教育のづさんな面があるゆゑのことだらうと、苦言を呈さずにはゐられなくなる方もいらつしやる事でせう。
例へば、幼兒期の教育理念には少なからず「のびのびとおほらかな」と云ふやうな文言がありますが、文字だけ見ればそれはたしかに理想的です。ただ、言葉の意味合ひは一人歩きをはじめ、日常の些細なことに手間暇を掛ける事を忘れ、デヂタル化された生活の中で自由奔放に育ててしまつてはゐないでせうか。やり度い事だけさせてゐたのでは良し惡しを學ぶ機會には出會へず、成長過程で苦勞するのは子供である事は火を見るよりも明らか。だからこそ人間形成の出發點でもある自我の芽生えとともに子供には適切な幼兒期の經驗を家庭、地域、教育機關が其れぞれの役割に沿つて與へなくてはなりません。
一方、此の教育荒廢の危機的な時代こそ、躾を尊び、日本の歴史と正當なる傳統文化を重視するべきだと奮鬪する哺育園、幼稚園が増えつつあるのも時代の反映でありませう。
そして、其の行動を支援する若い世代の父兄がゐると云ふことは、GHQの壓力で湮滅したかに見えた日本民族の良心が、俄かに再起しつつある表れと思ふのです。
本稿では、そんな哺育園のとある一日を體驗させて戴きましたので、此れをご紹介させて戴きます。
閑靜な住宅街の一角からひときは元氣な子供達の聲が聞こえて來ます。 近頃流行のテーマパークの樣な遊具も無ければ、お城のやうな派手な外觀とは無縁の平屋作りの質素な建物。入り口に入つた瞬間、不思議と空氣は一變します。無論、アンパンマンもゐなければポケモンも妖怪ウヲッチも此處にはゐません。段差有り隙間有り、園内全てゐたるところが智慧の寶庫と成つてゐるのです。
大きな怪我をしないやうにするには上手に歩かなければなりません。ついつい手を貸し度くなるのですが、此處は我慢。こんな時の子供の顏は眞劍其のものです。
愼重に恐る恐る足先の感觸を慥かめ乍ら難關を制覇していく。
成功!其の瞬間、自身滿々の笑みが顏いつぱいに廣がります。此の笑顏に會ひ度くて、私は、此處で不定期につたない紙芝居の慰問を行はせて戴いてをります。たとへ一日でも子どもは著しく成長をし、一日のすべてが腦に細胞に心に埋め込まれていくのです。
腦は六歳頃までに大人の脳の九割近くまで成長するとさへ云はれてゐます。從つて幼兒期のみならず人生にとつてこのころは大切な時期です。
「此れからを擔ふ子ども達を高い次元へと導いてこそ幼兒教育なのではないかと」園長先生は仰います。また「子供たちが持つてゐる本來の能力は、其の大半が知らず識らずに使つてゐるものです。危ないからとか、汚れるからなど大人の勝手な理由と都合で大切な經驗の機會を奪つてしまふことは日常の生活の中に溢れてゐます。積極的な行動力は自ら行ふことによつてでしか育ちません」とも。
子ども達のやり度い事がやれるやうに手助けを最低限にし勵まし譽め一緒に樂しむ見守りの育兒。こんな環境の中に育つ子ども達は早い段階で自主性、感受性そして、逞しさが育つのでせう。
然し乍ら、實際には、なかなか難しいものです。個々の家庭で實踐しようと試みても理想と現實のギャツプに挫折してしまひ子育てに自信を失くしてしまふこともあるかも知れません。日々の積み重ねが親子の絆を強くしていく・・・と頭で分かつてゐても、氣持ちに餘裕が持てないとこれを實踐することは困難です。そんな時に經驗が豐富で、しつかりとした教育理念を持つた自信ある支援者が身近にゐたらどれ程心強いか知れません。幼兒期に於ける教育機關には、母親を支援すると云ふ大きな意味合ひもあるやうに思へます。
登園より0歳兒から就學前の園兒全員がホールに集合し朝の集ひが始まりました。年長さんが小さな園兒の世話を當たり前にする光景は殊更に微笑ましく古き良き時代の大家族のやうに感じます。
園長先生が園兒の點呼を取り一人一人に聲がけ、小氣味よい返事と笑顏。今日も皆、元氣其のものです。
オルガンでの前奏が流れ正しい姿勢に成り、朝禮での國歌「君が代」齊唱です。凛とした空氣の中で「教育ニ關スル敕語」朗唱。小さい子ども達も元氣に朗唱してゐます。
此の試みを始めるにあたつては、保護者の中からも賛否兩論、樣々な意見があつたさうです。
日教組による反日主觀を刷り込まれてしまつた大人は「いまどき教育敕語なんか持ち出すこと自體完全に狂つてる」と言ひ、戰後の自虐主觀から脱却出來ない大人は意味もなく「戰爭」と云ふ言葉を持ち出し、むやみ矢鱈と恐怖心を煽らうとする。腦が固くなつてしまつた大人は、「意味が理解出來ない幼兒に教へる必要性がない」と言ふ。何かに焚きつけられた大人は「至る所で、じわじわと國に奉仕する子どもを育成する企みが施されてゐます。私たちはアンテナを鋭くしておかなければなりません」と狂つたやうに騒ぎ出す。どれも此れも全く根據のない氣の毒な史觀です。
此の樣な殘念な大人が存在してゐる一方で、柔軟で無垢な腦を持つ子供たちは、意味がわからなくても人としての徳を共に學んでゐるのです。
佐久間象山先生の詩に「一たび移れば千載再來の今なく形神既に離るれば萬古再生の我なし學藝事業豈悠々たるべけんや」とあります。小さな全身で今日の一日を今の瞬間を過ごす子供たちは生命力の塊です。
朝の集ひが終はり、さくらんぼのリズム遊びが始まります。園長先生曰く、「二足歩行をするためには、足で地面を蹴り、背骨で全身を支へなければなりません。まつすぐでしなやかな背骨と足の蹴りを育てさうした力を身につけるのがリズム遊びです。樂しいからやつてごらんなさい」と。私が園にお邪魔した此の日は、兩棲類のハイハイです。園長先生の優しいお言葉でお誘ひを戴いた以上は言はれた通り、兩棲類のやうに腹ばいに成つて腕を前に伸ばし、足指で牀を蹴つて前に進み、上半身は牀に着けて、左右にくねらせて這ひ、いざ園兒と競爭。リズム遊びとは聊かハードな罰ゲームのやうで、翌日、全身筋肉痛であつた事は言ふまでもなく、日頃の墮落の報ひを全身に受けたのでした。
ひとしきり遊んだあとは、愈々紙芝居。お話の時間です。
此の日のお話は、日本の歴史書である古事記に記されてゐる「稻羽の素兔」十分間と云ふ短時間で「いなばのしろうさぎ」を傳へるのには少々苦勞はあつたものの、古事記に觸れると云ふ趣旨は概ね果たせた事と、其の後の遊びの展開の中ですぐさま「いなばのしろうさぎごつこ」が始まつた事に思ひのほか驚かされてしまひました。たとへば、今の子供たちが「アンパンマン」で正義感、勇氣や友情と學ぶやうに、古事記に記されてゐる「スサノヲ」や「ヤマトタケル」の武勇傳によつて價値觀を培つてきた歴史が日本にはあつたはずです。
國史教育は、戰後、教科書の始めに書かれてゐた神話の項目を削除しました。正統なる學びを受けるべく學童に對し不利益を與へたのです。何が正しくて、何が間違つてゐるのか。人はどうあらなければならないのか。日本人としての歪みのない價値觀の形成が果たして輸入文化や外國史觀で養ふこと培ふことが出來るでせうか。答へは否です。
幼いころ歴史を學ぶ際の冒頭で日本神話に觸れる事は、情緒を豐かにし安定させるため必要不可缺であると考へられたのでせう。
戰後の子供たちに正しい日本の歴史を學ばせ度いと云ふ強い思ひをもたれた平泉澄先生は、祖國の精神再興のため、心血をそそいで「少年日本史」を書き殘してくださいました。先生のはしがきの中に「非歴史的なるもの、人體で云へば病菌だ。病菌を自分自身であるかのやうな錯覺をいだいてはならぬ」と書き記されてゐます。正しく、體内に異物が混入されたかの如く、喩へ樣のない違和感を抱へてゐる状態に成つてゐるのではないでせうか。
明治時代に高等小學校から親に配られた「家庭心得」の諺には、「教育の道は家庭の教へで芽を出し、學校の教へで花が咲き、世間の教へで實がなる」とあります。かつて、こんなに素晴らしい教育が日本にあつたのです。三歳に成るまで、おんぶに抱つこで肌身離さず赤ちやんを育てる子煩惱な日本人。心地良い親の背中から廣く社會を見てゐたのではないでせうか。
「しつかり抱いて、下に降ろして、歩かせる」と云ふ子育ては先人の智慧です。其の教育を生き返らせるには、子どもと母親を同時に教育出來る幼稚教育の場に於いて温故知新を大前提に掲げ、實踐するべきであると痛感しました。其の成果を此の度の哺育園訪問に於いて目の當りにし、あらためて、先人に習ふ教への深さに感謝する一日を過ごしました。

 

 

 

 

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