郷土の英霊に感謝 秋田智紀

復刊四号(平成二十六年四月一日)より

phot47[1]岡山縣護國神社清掃奉仕の集ひを始めて五年目に入つてゐる。私自身改めて、護國神社での奉仕といふ事、私なりの英靈顯彰を行ひたいと思ふ。
昭和四十二年二月二十八日發行の「岡山縣戰沒者忠魂録」に私の地元、倉敷市出身の高島俊三烈士が顏冩眞と共に記されてゐる。大正十三年八月二十七日母淺子の元で生を受ける。昭和十三年廣島幼年學校へ入校、同十九年陸軍士官學校卒業、少尉任官、直ちに航空隊に轉科、明野航空隊附となる。後東京都調布東部第一〇八部隊附、同二十年五月末福岡縣蘆屋飛行場へ行き昭和二十年六月六日陸軍特攻隊振武隊第一五九戰隊長として出撃、部下四人と共に沖繩ケラマ沖にて戰死した。高島少尉はヤンチャ風情があつたらしく裕福だつた實家からの仕送りを受けてしばしば花街で豪遊してゐたといふ武勇傳も。可愛がつてゐた若い藝妓がゐて、同期に自分の死後、彼女の面倒を見て欲しいとお願ひしたりと人間味が溢れ知れば知るほど親しみが湧く。部下思ひのそよかぜ隊隊長だつた生野文介大尉は、自分の部隊から出た特攻隊員として出撃した高島少尉の「あとは頼みます、ただ今から行つてきます」と言つて出撃していつた笑顏は忘れられないと語つてゐる。戰後高島少尉の實家を訪ねると母親は涙も見せず毅然として言つたといふ。「隊長さんにしつかり育てて戴いたおかげで息子は役に立つ事が出來ました。生野さんのお陰で立派に戰死できました。これが天皇陛下から戴いた勳章です、どうぞ見てやつて下さい」と。高島少尉のご兩親は、少尉が蘆屋から出した手紙を受け取り、慌てて倉敷から驅け附けたが、彼は既に知覽に向けて飛び立つた後であり、最期の面會は叶はなかつた。六月六日、知覽發進の直前、高島少尉はたまたま言葉を交はした見送りの傷痍軍人馬場行雄に、自身の軍刀と圖嚢を實家へ送るやう依頼した。圖嚢には、下掲の冩眞と
「前途のある若櫻を死の道づれにするのは誠に忍びず、父上より呉々も懇ろににお詫びして下さるやうお願ひ申し上げます。この冩眞を燒き増しして右の住所に送つて下さい。 俊三」と書かれた便箋が入つてゐた。
高島烈士は沒後天皇より陸軍大尉正七位勳五等雙光旭日章、功三級金鵄勳章を授與される。
最後に高島少尉が殘した遺書を紹介したい
遺書
皆々樣亂筆デ失禮致シマス。
俊三ハ今般第一五九振武隊長トシテ唯今ヨリ出撃スル事トナリマシタ。神州護持ノタメ喜ンデ征キマス。幼年學校入校以來大シタ孝行モセズ色々御無理バカリ申シマシテ何卒御許シ下サイ。既ニ私ノコトハアキラメテ居ラレルトハ思イマスガ御兩親ニ先立ツ不幸ヲオ許シ下サイ。ナアニ思ウ存分暴レ廻ツテ子供ノ時カラ良ク云ワレタヤンチャ坊主ノ本領ヲ發揮シテヤリマス。呉々モ健康ニ注意シテ私ノ分マデ長生シテ下サイ。園長先生、三木先生、原田米屋定金ニ宜敷。デハ征キマス。
俊三 拜
「神州護持ノタメ喜ンデ征キマス」と綴つて征つた高島少尉のその心を學び明日の糧へとしていきたい。
岡山縣戰沒者忠魂録、陸軍飛行第二四四戰隊サイト參照

戰後の今日の平和は、國や家族を想ひつつ犠牲となり尊い命を捧げられた御英靈によるものと感謝し、御靈安かれと日々慰靈顯彰に務めてをります。

岡山縣護國神社は備前藩主 池田 章政公が、明治二年四月三日御後園(後樂園)裏竹田河原に於いて、戊辰の役戰死者三四柱の招魂祭を執行せしめられ、次いで同年六月岡山市東山公園内に社殿と碑石を建て奧羽、凾館兩戰爭戰死者五五柱を祭祀されたのを起源とし、全國各地にある護國神社の多くは、明治二年東京招魂社(靖國神社)が創建されたのに併せ「招魂社」が建てられ、後に護國神社と改稱されました。 
 御祭神である「英靈」とは、明治維新の頃の戊辰戰爭より大東亞戰爭までの戰ひにより亡くなられた方々の功績を讃へてさう呼んでゐます。御祭神は、戰ひの中で病氣になり亡くなられた方、負傷された方の看護の爲に戰地に向かひ亡くなられた方、終戰後シベリアに抑留され強制勞働により亡くなられた方々もお祀りしてゐます。(岡山縣護國神社サイトより抜粋)