夏越の大祓 (岡 學歩)

多摩川浅間神社

令和元年水無月三十日、夏越の大祓へ行つて參りました。

地元神社の神事で、形代と茅の輪が用意され、參拜者は大祓詞により穢れを祓つた後茅の輪を潛り心身を清めてをりました。今年の晦日は日曜日と云ふこともあり、地元の小さな神社としては人が集まつてをりました。特に目立つのは子ども連れの親子、または祖父母がゐたやうに思ひます。年中行事の一つとしていらつしやつたのかと思はれます。

夏越の大祓に限つたことではありませんが、我々はこのやうな「行事」をどのやうに捉へるべきでせうか?

大祓の起源を辿れば記紀に著される伊弉諾尊の禊祓であり宮中で行はれてをりました。中世以降、各地の神社でも年中行事として廣まりました。また、庶民に於ても諸説ありますが、田植ゑを終へ、本格的に夏が始まる頃には疫病が流行りますので、無病息災・五穀豐穣の爲にも穢れを持ち越さず身を清めると云ふ事で廣く行はれるやうになつたと言はれてゐます。

記紀に於る禊祓は明らかに神事であります。水稻耕作に於る庶民の祓も祈りと云ふ點では神事でせう。しかし農業の技術進歩により祈りに頼らなくても一定の收穫を得ることができるやうになつても大祓は實施されます。稻作を離れ商業・工業なども盛んになつても大祓が廢れると云ふことはありません。それはIT産業などが普及した現代に於ても同じです。大祓などしなくても食料は豐富に確保され、空調などで過ごしやすく病氣になる可能性は極端に減らすことができてゐます。この段階で大祓とは行事となり文化として定着したと云へます。

文化とは言ひ方を變へれば、日常生活で當たり前に行つてゐることとも言へるでせう。そのやうな視點で穢を祓こと考へてみると實に多くの日常的な習慣があることに氣がつきます。例へば、仕事や學校から歸つたら着替へること、毎日風呂に入ること、靴を脱いでから家屋に上がること等々。日本人は領域を分けることに拘りを持つてゐる民族です。時間的領域・空間的領域など何かにつけて境を設けます。日常生活に於ては、自宅は清い空間であり穢れを持ち込みたくない。それ故、外出から歸つてきたら靴を脱ぎ・着替へたくなるのです。實に當たり前ではありますが、諸外國から見れば靴を脱ぐのも・着替えを何度もするのも實に非效率であり實施してゐない國も多いです。風呂に關しても衞生面の事を考へれば毎日がいいのかもしれませんが、生死の視點から見れば毎日である必要は無いでせう。リラックス效果や疲勞恢復など科學的な根據もありますが、フランス人などは髮の毛は一週間に一囘しか洗はないのが文化ださうです。風呂も一日の穢れを祓ふために當たり前に行つてゐる行爲なのでせう。そしてそれは、あまりにも當たり前すぎて意識されてゐません。しかし行はないと氣持ち惡いのです。外國の文化圈で生きる者にとつては氣持ち惡いとはならないかも知れません。しかし日本人は行はないと氣持ち惡いと感じるのは、祓と云ふ行ひがあまりにも日常になつてゐるからでせう。

 夏越の大祓の話に戻りますが、大祓も文化です。しかし、神事であると云ふ事を忘れてはなりません。意識しなければただの習慣と云ふ事でも、意識することで穢を祓ひ清めると云ふ神事となります。それ故に、神社のイベントに參加してくることが信心深いと云ふことではありません。日々、自らの文化や所作が記紀・古神道に由來される神事であることを意識することが必要であり、現在の日本人の多くに缺ける問題點であります。一日一日の穢は自らの日常の中に於る祓で清められるかもしれませんが、人間どうしても毎日とは行かず穢を蓄積させてしますものです。そのやうに蓄積された穢を節目の夏越と年越に祓ふのです。日本の文化や行事は非常に纖細な意味を持つ神事であります。その由來を認識することで文化・行事で留めることなく、神事として行ふことを意識することで日本人としてのあり方を自らに問うてみるべきでせう。

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