愚生は物部守屋公の生まれ変はり也 世界皇化浪人 下山陽太

復刊六号(平成二十六年十月一日)より

神代派は神兵隊告り直し組(天野辰夫を中心とした一派)を支持したい。
愚生は天野辰夫先生を運動家として、尊敬してゐる。何故ならば、天野先生は御一新に思想的信仰的妥協を許さなかつた運動家であつたからである。
嘗て、神兵隊直接行動司令の前田虎雄氏と北一輝及び西田税を引き入れるか否やで対立した事があつた。抑も、天野先生の学統は東京帝国大学教授の上杉慎吉氏の門人であつた為に、純忠無垢な 天皇尊信仰、赤化思想排撃を志向してをり、よつて思想的に北・西田と相容れる筈が無かつたのである。簡単に云へば、北は足利尊氏、西田は高師直であらう。純忠無垢の 天皇尊信仰の天野先生と北・西田等の天○機関説を信奉する連中と連帯する事自体、どだい無理な話であり、例へるなら、愚生と創価学会が手を組みませう、と云ふやうなものである。兎に角、天○機関説を信奉してゐる北一輝の『日本改造法案大綱』を読みさへすれば、北が「天皇国日本」より「民草の国家」を主張してゐた事は明白である。 天野先生は、彼等のやうに 天皇尊の臣民たる覚悟を忘却してゐる連中までも神兵隊に引き入れるやうな事をせず、逆に排除しようと考へた。無闇矢鱈な大同団結を排した天野先生は、数の力よりも思想信仰の偉大なる力を信じた事からも、其の志操と潔癖とを疑ふ者はあるまい。思想及び信仰の対立には妥協は許されない。畢竟、思想や信仰の対立に依つて、生まれた派閥を解消する事は難しい。何故なら派閥克服とは、思想及び信仰の克服であるが、此れは容易では無い。又、行動論では天野先生は血盟団事件及び五・一五事件を契機に非合法に走つたのだが、血盟団のやうに一人一殺で重臣を排除するのでは無く、国家政治の中枢部を破壊する事に依り、祭政教一致の 天皇尊親政のまつりごとを顕現しようとした。
成程、明治御一新は紛れも無く、薩長土肥の大同団結を以て顕現されたかも知れない。だが、程なくして平田学派及び征韓党は追放され、結局は欧化主義者が中枢を占めた事に依つて、神武創業への復古が頓挫した事実を回想するまでもなく、何でも大同団結すれば良いと云ふ問題では無い。明治御一新補完の昭和御一新運動は殊に日蓮主義が流入したり、小事に走り大事を疎かとした大同団結の為に御一新は頓挫したままである。愚生は無闇矢鱈な大同団結を否定し、神風連的宗派こそ、此れからの御一新の運動形態であると思ふ。一部に天野先生及び前田氏の道統を再び結び付き合はさうと試みる者が居るが、其れは大きな御世話であり、思想なり信仰なりの相違あつて、別れたにも関はらず、其れを再び糾合させるのは思想を疎かにしてゐる事である。
扨て、本題に移らう。愚生は仏魔及び神仏習合を容認する連中を討伐する本陣である。物部守屋公は仏魔流入を阻止する為に戦つた神臣である。抑も、仏法史観は 皇国を覆ふ暗雲であり、除去しなければならない。仏魔抹殺を図らうとした物部守屋公は神代派の始祖である。神代派は仏魔と戦ひ、筆誅を下す 皇国の異端審問官である事は前号で掲げたが、宗教戦争は信仰浄化、思想戦争は思想浄化である。物部守屋公の悲願である仏魔抹殺の宗教戦争は今尚、続けられてをり、平成の蘇我馬子は憾むべきことゝして未だ 皇土に跋扈してゐる。さう、「戦争即禊祓」であり、「廃仏即神事」である。そして、神仏と云ふ正邪を分別し、祭政教一致の本義を取り戻さなければならない。会沢正志齋先生が「祭は以て政となり、政は以て教となる。教と政とは未だ嘗て分れて二と為らず」と述べたやうに 天照開闢以来、祭政一致教こそ、皇国の国是である。其の為、創価学会や新日本宗教団体連合会等の宗教団体が政治に関与すればする程、祭政教一致の道程が遠くなる。吾々は政教一致を排撃し、祭政教一致を期成させなければならない。然し乍ら、大東亜戦争の敗北に依り、皇国は蹂躙され、あらうことか皇民の 皇国体観念は歪められた。其の証左に大日本帝国憲法及び皇室典範の改廃、教育勅語廃止、神道指令は紛れも無く、皇国体を貶めた。然し、ヤルタ・ポツダム体制の打倒だけでは 皇国体を取り戻す事は可能や否や。日本国憲法改正や大日本帝国憲法復元改正、日米安保条約を破棄した所で愚生は 皇国体が恢復するとは思つてゐない。未完たる明治御一新を再び挙行し、神代復古を成就してこそ、皇国体は恢復される。此れが愚生の立場である。祭政教一致は 皇神の神意を現世に顕現させるための政治を行ふ事である。
蘇我石川麻呂公謂へらく「先づ以て神祇を祭(いは)ひ鎭めて、然る後に應に政事を議るべし」と。此の一文は大化改新の精神を述べたものであり、御一新の根底には祭政教一致である事を宣言したものである。物部守屋及び蘇我石川麻呂両公の神祇崇拝及び祭政教一致の精神こそ、御一新を考へる上で必要不可欠である。思想及び信仰は妥協してはならない事を示した両公は政治家である前に宗教家であつた、と評価する事が出来よう。そして、両公の事蹟は忘却してはならないと共に此の道統こそ、復古者の道統であらう。
明治天皇が「善きをとり 悪しきを捨てて 外とつ国に 劣らぬ国と なすよしもがな」と詠まれたやうに異国の思想や信仰、文化を全面的に流入する事を是とするのでは無く、皇国体の生成発展に寄与するものは受け容れるべきであり、さうで無いものは投擲せねばならない。更に云へば、皇国体は日々生成発展するものであり、皇国体の生成発展に寄与しないものは駆逐されなければならない。吾々は体内に溜まつた糞を掃き出す事に依つて、爽快な気分になり、健康は維持される。其れは 皇国体に於ても同様であり、皇国体の生成発展を阻害するありとあらゆるものを捨て去る事が 皇国体闡明戦であり、つまり其れが宗教戦争及び思想戦争である。
昭和御一新運動が天○機関説撲滅から始まつたやうに、平成御一新運動は創価学会撲滅から開始されなければならない。其れは愚生と福田素剣翁との誓約でもあり、皇神が地上から創価学会を消し去りたいと云ふ大御心であるならば、神威の随意に抹殺されるであらう。創価学会撲滅は神命であり、此れは福田素剣命から愚生に下さりし神言であり、神命は必ずや成就されなければならない。吾々の陣営の中で創価学会撲滅を図つたのは皇道日報を中心に大日本愛国団体連合・時局対策協議会、そして、大日本愛国党や瑞穂塾であり、大変少なく、其の当時は反共一辺倒であり、創価学会でさへも反共の同志として、共闘してゐたからであり、今は赤化思想と云ふ脅威が表面上無くなつた以上、信仰浄化運動の一環として創価学会撲滅を開始されなければならない。創価学会撲滅の為には宗派的同志を結集させると共に陣営内の神仏習合を是とする信仰を祓ひ除け、信仰的覚醒を促さなければならない。其れは本教しか有り得ない。禍津日神の化身として地上に現れたのが日蓮であり、日蓮と云ふ悪霊が創価学会の牧口常三郎や戸田城聖、そして、池田大作に憑依したのである。『人間革命』より『神州恢復の聖戦』こそ、吾等に必要であり、創価学会のやうな顕幽を司る 皇大神宮及び出雲大社、そして、産土神社に参拝しないやうな信仰は 皇国の信仰に非ずして、印度の信仰であり、創価学会が何を云つても彼の信仰はヒマラヤ山脈止まりであり、皇国的信仰で無い事は明白であらう。吾等の血統は神孫皇民であるが、精神的には印度や猶太に冒され、盲従してゐる。話は逸れてしまふが、天皇尊を中心とする皇胤民族であると云ふ証こそ、「姓氏名字」であり、其れが神孫皇民である証明書である事を忘却してはならない。又、田中智学及び里見岸雄が如何に 皇国体について熱く語つたり、分厚い本を書かうが愚生は本教を基軸としない 皇国体思想は信用に値しない。日蓮主義的国体説や科学的国体説では御一新は不可能である。神代こそ、神孫民族の生命源であり、皇国体の淵源である。そして、仏魔で以て 皇国体を説くのは似非神孫皇民であらう。そして、日蓮主義者が如何に 皇国体姦乱をしてゐたか、其れは問ふまでも無く、陣営内を攪乱した事は明白である。
皇道日報と時対協は思想戦争及び宗教戦争を挙行する参謀本部である事は福田素剣及び浅沼美智雄両先生、平澤次郎翁の運動を鑑みれば、当然である。皇道日報及び時対協の忌むべき第一義は神仏習合を是とし、皇神と仏魔を恰も五分五分の兄弟分だと思ふやうな神仏奉拝を叫ぶ連中である。兎に角、皇道日報及び時対協は日蓮宗と日蓮主義、創価学会撲滅を図り、運動してゐた。平田篤胤大人の『出定笑語』が座右の書である愚生が日蓮主義討伐の道統に連なつてゐるとは何かの神縁であらう。創価学会撲滅を挙行出来なければ、神代復古顕現なぞ、不可能なことなのだ。此れは信仰と信仰の対決であり、信仰の救済である。然し乍ら、思想及び信仰が異なる者同士の大同団結は否定されなければならない。何故なら、大同団結に走り過ぎた為に分裂してしまつた協議会や団体の背景には思想や信仰の相違性があつたからであり、大同団結より神風連的な宗派的同志関係こそ、思想戦争及び宗教戦争挙行に当たつて必要である。
本教の極致は、「正邪二神闘争主義」である。東漢直駒や弓削道鏡及び足利尊氏が現れたり、大東亜戦争が敗北したり、そして、民主党の政権交代も凡て、神意であり、吾々が祭祀を怠つたが為に禍津日神の神威が勝つたものであり、其れは吾々が祭祀を怠つて来た事が明白であり、猛省しなければならない。当然、仏魔渡来も禍津日神の神意である。此れこそ、神風連の理論的支柱の林櫻園大人の「神事は本、人事は末」と云ふ思想である。
殊更、魔仏邪基を討祓ひ、仏魔邪基が混在しない「純正神国家建設」をする事が重要である。仏魔及悪魔の存在が 皇神及び 天皇尊の御稜威を阻害してゐる事は明白である。宗教戦争は霊的戦争である。此れからは信仰と信仰の戦ひであり、其れは同じ神孫皇民で有り乍ら、皇神を信仰する吾等と邪神だの仏魔を信仰する連中との戦ひであり、吾吾が祭祀を日常不断に挙行さへすれば、皇神が吾等に加勢し、人数なぞ関係無い。思想及び信仰を研ぎ澄ませれば創価学会撲滅も夢想では無く、現実となる。其の際の攻撃精神は思想及信仰に裏付けられたものである。殊に 皇学は仏魔史観を思想的に抹殺しようとしたものである。此れからの運動は街宣車から降りた際に吾々は真価が問はれるであらう。
精神の戦ひたる宗教戦争こそ、現今の 皇国に必要であり、国家社会主義や共産主義云々より、皇国から仏魔が駆逐されない限り、体制が刷新されようが、神威が溌溂とされない。神代復古とは、皇国からの仏魔邪基が抹殺がされ、皇神の神威が溌溂となる事である。思想及び宗教戦争は霊的戦争に帰結され、凡てを動員し、戦はなければならない。楠木正季公の「願はくば、七たび、人間に生れて、国賊を殺さん」と云ふ「七生報国」は殉皇の精神であり、愚生は何度も生まれ変はり、創価学会撲滅に邁進するであらう。更に云へば、皇国史を究明、そして、皇国体を把握し、天皇尊を信仰する事であり、「天皇尊の御為に笑つて死に内侍所の苔となつてでも、御宇を支へる」と云ふ臣民道を忘却してはならない。
神代には仏魔が存在して居ない事は明白であるにも関はらず、先祖が日蓮宗だの念仏宗を信仰してゐるから本教に改宗するのは不可能である、と述べるのは神代忘却の徒であらう。日頃、敬神崇祖を説き、葬儀は仏葬で挙行したり、君民一体の 皇国体と説き乍ら、天皇尊が神葬で行ふにも関はらず、臣民たる吾々が仏葬を行ふと云ふのも不敬な話であらう。
因みに明治御一新は 皇城から仏臭を祓ひ除けたと云ふ宗教改革である。葬祭と云ふのは其の人物の死生観と云ふものが分かるものであり、死生観は其の人物の思想や信仰を目に見える形で顕現したものである。「天皇陛下万歳」、「天皇弥栄」と念昌しつゝ、彼の世は「釈迦万歳」、「如来万歳」、「菩薩万歳」では節操もない上、さういふ連中が七生報国で生まれ変はつて来ても甚だ迷惑である。神孫皇民としての自覚があるならば、帰幽の後も幽界から 天皇尊の御宇を支へる一柱となるべきであり、其の為にも葬祭は本教で挙行しなければならない。仏葬で挙行しても、所詮、穢れた世界に行く位なら、御宇を支へる一柱となつた方が、皇国体に寄与する事になるであらう。吾吾の先祖は悉く本教を信仰してゐた事は明白であり、何かしらの因果で仏魔に帰依したまでであり、其れを 皇国唯一の信仰たる本教に帰依無くして、神国日本顕現、神代復古は到底不可能である。家庭内宗教戦争を一億皇民を巻き込む宗教戦争に転化しなければならない。
神代派は本教原理主義的復古運動を担ふ。つまり神代派は政治運動乃至闘争に止まらず、宗教の大事を再び宇内に取戻し、それはすなはち本教の偉大と権威、節操を恢復するための運動乃至闘争を行なふといふことなのである。
神代復古の成就を祈念すると共に神代復古へ向けて行動すると共に、「神敵討滅」に備へ、思想及び信仰を日常不断に亘つて、研ぎ澄ませていかなければならない。

 

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